ダンディ男バニーの飼育日記

YouTubeで誰にも相手にされない【ラジオ好き】若者2人(♂)の飼育日記です。YouTube生配信は毎週水曜日、おおよそ21:30~!!

【考察】死んじゃいけない自分なりの理由を考えて、自分に言い聞かせてみる。

どうも、
ダンディ男バニーの乳豚(にゅうとん)です。

弱り目に、祟り目に、泣きっ面に、蜂。

単純に薬の副作用がキツイ…

僕はどう生きたらいいのでしょうか。

どうやっても人は死にます。
正確に言えば、人が生物である限り、いずれ死にます。
最近、AIの性能が良くなってきて「AIが人に代わって仕事をする時代」というものが近づきつつあるようです。
それを突き詰めていけば人は単純に死ぬものではなく、故障しても修理すれば再生できる新型人間と、修理のできない使い捨てな生身の旧型人間が混在して、「死」というものがある種のポップで複雑な概念となるのではないでしょうか。

さて、僕は今回そんな堅苦しい妄言を伝えたいのではありません。
もっといえば、今回は読者に伝えたいことはないのです。

自分に「死ぬな」と伝えたいのです。
死ぬことは仕方ないこと。だっていずれ人は死ぬから。
でも通勤鞄の肩紐を自分の首に巻くのは、仕方ないとは言えません。

どんどん膨れ上がる「死にタイガー」「生きててもつライオン」に惑わされている僕自身に対して、僕が考える自分で死んではいけない理由を、頭が悪いなりに考えて伝えてみたいと思います。

死してなお、迷惑をかける度胸が僕にはないから

「親より先に死ぬほど親不孝なことはない。」
いろんな人が語る名言っぽい言葉ですが、これは正にその通りだと思います。両親が一生懸命かどうかは定かではありませんがSEXをして、僕は生まれました。それから約20年近く、裕福とは言えないまでも不自由なく育ててもらうことができました。

親が僕を産んだ齢を、僕はとっくに超えてしまいました。その齢で僕は子どもを育てられる自信はないですし、もっと言えば今現在の僕の齢でも子どもを産んで育てられるかと言えば胸を張って「YES」とは言えません。

両親の人生や経済観を考えてみれば、僕より多少地盤がしっかりしてるとは言え、かなり不安はあったと思います。その不安や疑問を抱える中で、とりあえず手持ちにいくらかのお金さえあれば何とか東京でも生きていける程度の学力と知識を与えてくれた両親には感謝しかありません。

同居人のAzさんや、僕なんかとお付き合いしてくださっている恋人にも感謝しかありません。田舎をとりあえず飛び出しただけの右も左も知らない僕を大阪や東京の見知らぬ土地で支えてくださいました。

両親やAzさん、恋人が果たして僕が死んで悲しむのか。それは分かりません。

しかし、単純に迷惑なのは分かります。
教育は投資なんて言いますが、僕が自殺をすれば、両親からすれば今までの投資は何だったのかとなります。それなりに葬儀の準備や親戚やら隣組の人たちに対して説明したり挨拶したり、面倒をかけてしまいます。
ダイレクトに迷惑なのはAzさんでしょう。もし僕が部屋で死のうものなら、仕事終わりに同居人が自宅で死んでいるのです。大家さんへの対応から警察への対応…細かい手続きが苦手なAzさんに多大なる迷惑をかけてしまいます。
恋人にだって迷惑がかかるでしょう。

死んでも迷惑をかける、面倒な奴だと思われるほどの度胸は、僕にはないはずです。

いま死んでも「幸せ」ではないから

今年こそNISAでも始めようかと、馬鹿なりに投資の勉強をしています。その中で、前々から疑問だった「幸せとは何か」についてヒントを得たような気がしました。

そのヒントとは「投資のタイミング」です。
どんなに価値のある金融商品であっても、売る瞬間に暴落してしまえば損をしてしまうものです。
それと同じように、どんなに順風満帆な人生であっても、死ぬ瞬間が悪いと「不幸な人生」となってしまいます。

つまり人生の「幸せ」「不幸せ」というのは、死ぬ瞬間のテンション次第なのです。「ハッピーエンド」こそが「幸せ」の真理だと僕は仮定しました。

神童として育ち、東大を飛び級&主席で卒業、総理大臣になるも借金を苦に自殺した人。貧しい家庭に生まれ、満足に学校にも通えず、うつ病と戦いながら就職し、愛するパートナーの腕の中で安らかに老衰。なんとなく後者のほうが、幸せそうな印象を抱いてしまいませんか。

確かに本人からしてみれば、後者は辛い時間が長く、前者はイキイキとしていた時間が長かったはずです。しかし、赤の他人である我々からしてみれば本人が楽しかったかどうかは、意外と本当に幸せかどうかとはあまりリンクしてないのです。

「幸せ」かどうかは他人が決める評価、例えばゲームのリザルト画面みたいなものだと思えば分かりやすいでしょうか。つまり本人にとって「楽しい」「楽しくない」「辛い」「悲しい」というステータスや実績はあれど、本人が生きているうちは「幸せな瞬間」も「不幸せな瞬間」も存在しないのです。

では、僕はどうでしょうか?
ようやく拙いながらも自由に生活できるような経済力を得ることができました。ささやかながら一緒に愛を育むことができる恋人ができました。そこで。うつ病を発症し、自殺。あまり幸せな印象ではありませんね。むしろ不幸、なんか残念な印象が生まれてしまいます。

試験やテストの採点を自分でできないように、自分の人生が「幸せ」だったか「不幸せ」だったかの答え合わせは、死んだ瞬間に他人が行うのです。
ならば、もう少し幸せ度が高いタイミングを見計らって、幸せ度の高い死に方を待ったほうが得なのではないかと、投資の勉強をしながら考えました。

単純にダセェから

芸大出身ということもあり、活躍した卒業生や在学中に目標にしていたアーティスト(?)の中には、自殺や不慮の死に遭遇してしまった人が多数存在します。
恥ずかしながら、僕もそういったアーティストの死には一種の憧れを抱いており、昨年27歳を迎えた際には「27クラブ」を強く意識したものでした。

しかし、どうでしょう。活躍して才能や人格を惜しまれながら死ぬからカッコよく印象が残るのであって、僕みたいになにも残せなかった者が死んだところで何も残りません。

なんとなくダセェ奴が、メンドクセェ死に方で、迷惑をかけてきたという嫌な雰囲気がふわっと出て、いずれ忘れられてしまうのです。そんなの嫌じゃないですか。どうせ死ぬなら、もっとウェルカムに死にたいわけですよ。自殺であっても。

 

以上の3点から、僕はまだ死を選ぶべきではないと思います。もう少し、冷静になれよ、乳豚!!

(文責:乳豚)
https://twitter.com/Newton_Youtuber

 

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