ダンディ男バニーの飼育日記

YouTubeで誰にも相手にされない【ラジオ好き】若者2人(♂)の飼育日記です。YouTube生配信は毎週水曜日、おおよそ21:30~!!

【最終回】について、思うこと。

どうも、
ダンディ男バニーの乳豚(にゅうとん)です。

コンテンツの”生前葬”、一旦「最終回」をやってみる

僕には、一度やってみたいラジオ企画があります。

その名も「ラジオ生前葬、理想の最終回SP!!」。

やっぱりラジオ、リスナーからのハガキを読んでみたい。

生前葬」とは文字通り、生前に執り行われる葬儀のこと。つまり弔われる人が生きている状態で、もう葬式やっちまいやしょうぜ…てな具合である。

 

一見、不謹慎にも思える「生前葬」であるが、本来なら亡くなってしまっている葬儀の主人公が生きているので本人の意思を尊重しやすく、また参列者も当人を生きているので前向きな気持ちで臨めて感謝の言葉等も直接届けることができる。ここ最近の日本では「終活ブーム」ということもあり、「生前葬」という言葉も耳に馴染むようになった。

 

しかし「生前葬」もとい「終活」とは高齢者ばかりが執り行うものでも無いなぁと最近、僕は思っている。

僕みたいな20代の若者(?) も、いつ死んでもおかしくない。病気、事故、事件、自殺…vこの世の中、幸か不幸か人が死ぬ要素が溢れていて、いつ死ぬ気になってもネタには困らない。

それに加えて、個人的に僕は恥の多い生涯を過ごしてきました。もし僕が死んだときに残される遺品たちは、一般人からしたら目を背けたくなるような物も多い。特に押し入れの、書籍が詰まった重たい段ボール2箱は遺族に発見されるわけにはいかない。死んでなお、家族を悲しませるような親不孝者に僕はなりたくないのだ。自分の死期が分かるならば、絶対に死ぬまでに処分してしまいたい代物ばかりである。

…まぁまだ、たまにその書籍のお世話になっているので処分することもできないのだけどね。

 

さて話は戻って「ラジオ生前葬」という企画である。

これはなにも、僕やAzさんの生前葬の様子をラジオ中継したいという訳ではない。誰も参列してくれなさそうだし、感謝の言葉も罵詈雑言も日常的に交わしているし。

今回、弔いたい対象はコンテンツそのものである。つまり、自身のラジオに対して意図的に最終回を迎えさせるのである。

 

テレビやラジオ番組の最終回は大きく分けて二つ。一つは豪華絢爛に幕を下ろす番組。先日、最終回を迎えた情報番組「スッキリ!」では宮本浩次さんやスカパラなど情報番組とは思えないほど豪華なアーティストがパフォーマンスを披露し、番組の終わりに花を添えた。バラエティ番組好きに多大な衝撃を与えたのは「笑っていいとも!」の最終回ではないだろうか。司会のタモリさんを中心に日本のテレビ業界を盛り上げた著名人たちがステージへひしめくように上がり、文字通り有終の美を飾るエンディングを迎えた。

対して打ち切り等の要因で最終回を迎える番組も多く存在する。新聞のラテ欄で最終回であることを知ったり、誰も知らないうちに番組が終了していたり。

しかしどちらの最終回を取ってみても、コンテンツの終了という現象に違いはない。番組が始まった以上、いつかは番組が終了する。その終了の仕方が華やかであったか、そうでなかったか、それだけの違いである。

 

さて視点を移して、我々ダンディ男バニーも密かに活動を続けているYouTubeはどうだろうか。毎日のように、どこかでコンテンツが開始され、どこかでコンテンツが終了する。

これはラジオやテレビと同じ現象である。しかし決定的に違う点も存在する。それは打ち切りで終了するコンテンツはラジオやテレビと比べて圧倒的に少ないということ。

企業や芸能人がYouTubeで活動することも珍しいことではなくなったが、それでもYouTubeにコンテンツ提供している大多数は我々のような素人である。

 

始めるのも自由、終わらせるのも自由である。人気が無いから辞めなくてはならない、そんなことはないのである。だから情熱が続く限り、続けようと思えば一生続けることも可能なのだ。しかし、一つのコンテンツに対して一生かけて情熱を注げる人間は地球上に何人いるだろうか。明日、YouTubeより手軽に面白いサイトが開設されるかもしれない…そんな状況下でもYouTuberとして変わらない情熱を捧げられる人物はどれほどいるだろうか。

僕は決して多くはいないと思う。

 

さてそんな状況下に晒されているコンテンツの終わりを想像して欲しい。まるで空中分解されるように、誰にも知られることもなくひっそりと息を引き取るのだろう。一攫千金を狙った情熱も、自己顕示欲を具現化できた喜びも、風に吹かれた乾いた砂のようにどこかへ飛んで行ってしまうのだ。

もちろん、僕が手掛けているコンテンツもそうだ。

いつ配信が不可能になるくらい情熱を失ってもおかしくないし、転居や体調不良など物理的な要因で更新ができなくなったとしても不思議ではない。そんないつ終了するか分からないコンテンツであるからこそ、華やかに有終の美を飾ることが難しくなってしまう。

 

だからいっそ、この手で生きているうちに理想の形で弔ってやらねばならない。そうすれば見えてくるかもしれない。真の理想が、僕たちが本当に目指そうとしていたコンテンツの形が。そして自分たちが生み出したコンテンツに対する、感謝の気持ちが。

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